2010.10.27
[インタビュー]
コンペティション『そして、地に平和を』マッテオ・ボトルーニョ監督、ダニエレ・コルッチーニ監督 インタビュー(10/27)
1981年、共にローマ生まれのマッテオとダニエレの2人は、5歳の頃からずっと一緒だった。映画の研究・批評活動から映画作りへ移ったのも自然なら、共同で脚本を書き共同で演出するのも2人には自然なことだった。長編デビュー作の『そして、地に平和を』は、倦怠と暴力に身を任せる不良たちの肉体を通して見つめたローマ郊外の新開地の荒廃と復活の黙示録と言えそうだ。
――あなた方にとってローマとは?
マッテオ・ボトルーニョ監督(以下 ボトルーニョ): 古代ローマの遺跡がいたるところにある過去の亡霊が住む大都市。その一方で、僕たちの映画に出てくるような暴力や仕事や勉学のエネルギーに満ちたエリアも存在する。そこは蛇のような1キロもある長い建物が作られ、都市計画では中心街と結ばれる筈だったのに、何年も放置されたままになっているのだけれど。
ダニエレ・コルッチーニ監督(以下 コルッチーニ): 付け加えれば、ヨーロッパの他の都市と違って立ち遅れている面もあるけれど、何かを探している街。この映画の中のエリアは1万4000人が住んでいるのに中心街に行くのに1本しか道がない。奇妙に周囲から切り離された環境で、人々は街のなかに小さなコスモスを作っていると言える。
――映画史的には第2次大戦終結頃のロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』、60年頃のフェデリコ・フェリーニの『甘い生活』のデカダンス、スラム地区に向かったピエル・パオロ・パゾリーニの映画等でローマが描かれてきましたが…。
ボトルーニョ: 3人を継承する者でありたいと思うが、特にパゾリーニに僕たちは近い。パゾリーニは映画だけでなく詩や小説でも新開地をとりあげた。今はパゾリーニの小説「生命ある若者」(1955年刊)のような貧困と暴力が支配的なわけではない。僕たちが描きたかったのはそこの疎外された状況なんだ。
コルッチーニ: つまり、当時は食べることが重要だった。そのために若者は盗みもした。今は違う。テレビのせいだと思う。たとえひもじくてもセレブのようでありたいという願望の方が強くなっている。
コルッチーニ: 実際、新開地コルヴィアーレ(Corviale)はナポリのような政治的現実を映し出している。行政が何もしないので、住民たちは自力で町の環境を整えている。街灯をつけたり、エレベーターをつけたり。町をよりよいものにしていこうという気力に満ちている。
――撮影に関しては?
コルッチーニ: コルヴィアーレの人たちに受け入れてもらえた。今までそこに撮影に来たクルーはなかったので、カメラへの好奇心もあって協力してもらえた。
――出所してここに戻ってくるマルコから始まるので、彼が主人公のような印象ですが、3人の不良の方こそ真の主人公に見えてきました。
ボトルーニョ: 観客を迷わせようという意図が僕らにはあったけれど、やはりマルコが主人公で、3人の不良も、それから大学で熱心に学ぶソニアも重要。そしてマルコだけがいろんな人物とつながっている。
――パゾリーニの映画のように、地元の素人俳優とプロの俳優の混成ですか?
コルッチーニ: 皆、プロの俳優たちです。僕たちがよく見に行く芝居の人々が中心だったから、脚本段階からそれぞれの顔を思い浮かべながら書いていった。そしてこの役なんだけど、と彼らに話を持っていき、受けてもらったというわけ。
――共同で脚本を書き、演出するのは大変ではないですか?
ボトルーニョ: 全然大丈夫。意見はよくあうし、意見が違えば強い意見が勝ち、妥協してかえってどちらのものよりよかったりもする。それに脚本にはもうひとりアンドレアが入るから、対立したら多数決ができる。
――ところでパゾリーニの継承者のひとりだと私が思っているシチリアの2人の監督、『ブルックリンの叔父さん』や『二度生きたトト』のダニエレ・チプリとフランコ・マレスコについては?
ボトルーニョ: 彼らの映画はシュールで特異すぎます。
コルッチーニ: 彼らは(聖なるものを)グロテスクに汚しているようだけれど、実際にはそうではなくて、まとまりよく受け入れやすいものになっている。僕らの映画は暴力シーンに宗教音楽をかぶせていて、ローマ的なカトリック的(自分らはそうではないが)空気が反映されている。このことは批判されたり攻撃される危険もあったのだけれど、そうはならなかった。(チプリたちよりずっと危険だったんだ!)
もし、パゾリーニが生きていたら、ローマ組とシチリア組のどちらを贔屓しただろうか。新しい現実に向かうのがローマ組で、過去に向かって驀進するのがシチリア組だ。それはパゾリーニ自身のふたつの魂でもあった。
(聞き手:田中千世子)
そして、地に平和を
©2010 TIFF
――あなた方にとってローマとは?
マッテオ・ボトルーニョ監督(以下 ボトルーニョ): 古代ローマの遺跡がいたるところにある過去の亡霊が住む大都市。その一方で、僕たちの映画に出てくるような暴力や仕事や勉学のエネルギーに満ちたエリアも存在する。そこは蛇のような1キロもある長い建物が作られ、都市計画では中心街と結ばれる筈だったのに、何年も放置されたままになっているのだけれど。
©2010 TIFF
ダニエレ・コルッチーニ監督(以下 コルッチーニ): 付け加えれば、ヨーロッパの他の都市と違って立ち遅れている面もあるけれど、何かを探している街。この映画の中のエリアは1万4000人が住んでいるのに中心街に行くのに1本しか道がない。奇妙に周囲から切り離された環境で、人々は街のなかに小さなコスモスを作っていると言える。
©2010 TIFF
――映画史的には第2次大戦終結頃のロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』、60年頃のフェデリコ・フェリーニの『甘い生活』のデカダンス、スラム地区に向かったピエル・パオロ・パゾリーニの映画等でローマが描かれてきましたが…。
ボトルーニョ: 3人を継承する者でありたいと思うが、特にパゾリーニに僕たちは近い。パゾリーニは映画だけでなく詩や小説でも新開地をとりあげた。今はパゾリーニの小説「生命ある若者」(1955年刊)のような貧困と暴力が支配的なわけではない。僕たちが描きたかったのはそこの疎外された状況なんだ。
コルッチーニ: つまり、当時は食べることが重要だった。そのために若者は盗みもした。今は違う。テレビのせいだと思う。たとえひもじくてもセレブのようでありたいという願望の方が強くなっている。
コルッチーニ: 実際、新開地コルヴィアーレ(Corviale)はナポリのような政治的現実を映し出している。行政が何もしないので、住民たちは自力で町の環境を整えている。街灯をつけたり、エレベーターをつけたり。町をよりよいものにしていこうという気力に満ちている。
――撮影に関しては?
コルッチーニ: コルヴィアーレの人たちに受け入れてもらえた。今までそこに撮影に来たクルーはなかったので、カメラへの好奇心もあって協力してもらえた。
――出所してここに戻ってくるマルコから始まるので、彼が主人公のような印象ですが、3人の不良の方こそ真の主人公に見えてきました。
ボトルーニョ: 観客を迷わせようという意図が僕らにはあったけれど、やはりマルコが主人公で、3人の不良も、それから大学で熱心に学ぶソニアも重要。そしてマルコだけがいろんな人物とつながっている。
――パゾリーニの映画のように、地元の素人俳優とプロの俳優の混成ですか?
コルッチーニ: 皆、プロの俳優たちです。僕たちがよく見に行く芝居の人々が中心だったから、脚本段階からそれぞれの顔を思い浮かべながら書いていった。そしてこの役なんだけど、と彼らに話を持っていき、受けてもらったというわけ。
――共同で脚本を書き、演出するのは大変ではないですか?
ボトルーニョ: 全然大丈夫。意見はよくあうし、意見が違えば強い意見が勝ち、妥協してかえってどちらのものよりよかったりもする。それに脚本にはもうひとりアンドレアが入るから、対立したら多数決ができる。
――ところでパゾリーニの継承者のひとりだと私が思っているシチリアの2人の監督、『ブルックリンの叔父さん』や『二度生きたトト』のダニエレ・チプリとフランコ・マレスコについては?
ボトルーニョ: 彼らの映画はシュールで特異すぎます。
コルッチーニ: 彼らは(聖なるものを)グロテスクに汚しているようだけれど、実際にはそうではなくて、まとまりよく受け入れやすいものになっている。僕らの映画は暴力シーンに宗教音楽をかぶせていて、ローマ的なカトリック的(自分らはそうではないが)空気が反映されている。このことは批判されたり攻撃される危険もあったのだけれど、そうはならなかった。(チプリたちよりずっと危険だったんだ!)
もし、パゾリーニが生きていたら、ローマ組とシチリア組のどちらを贔屓しただろうか。新しい現実に向かうのがローマ組で、過去に向かって驀進するのがシチリア組だ。それはパゾリーニ自身のふたつの魂でもあった。
(聞き手:田中千世子)
そして、地に平和を